地震に真っ向勝負で勝てるわけがない!
人間は太古の昔から地震にはおそれおののき、地震を鎮めるための儀式とかいろいろと頑張っていたらしいから、現代の技術でもそんなのに勝てるわけがない!
地震に対抗するには、気持ちで負けないことだ! 気持ちさえあればどうにかなる!
めっちゃコワイ!!! めっちゃコワイけどコワイからこそ頑張って勝てよオレオイ!!!
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携帯電話の日記【参考情報】
○「結婚するなら東電社員」だったけど……原発城下町住民のいま○
東日本大震災ルポ・被災地を歩く:
東京電力の福島第一原発の事故から8カ月。2011年もあと残り1カ月となったが、事故収束の見通しははっきりしない。原発事故の廃炉に向けては、11月9日になってから枝野幸男経済産業大臣と細野豪志原発担当大臣が、東京電力の西沢俊夫社長らに具体的な工程表の作成を指示した。それによると、年内に安定的な「冷温停止」状態を維持し、「ステップ2」の段階を終える予定だ、という。
【画像:事故時に出動した放水車、ほか】
こうした中、11月12日、細野原発担当大臣が福島第一原発の視察に同行する形で、事故後初めて報道陣の取材が許可された。しかし許可されたのは、内閣記者会、福島県政記者クラブ、外国プレスの代表といった限られた枠でのもので、雑誌やインターネット・メディア、フリーランスには許可されなかった。
こうした取材制限は内外から批判を浴びた。そのため、外国プレスの代表取材をした新月通信社代表でイランの国際衛星放送PressTV日本支局長のマイケル・ペンさんが、「記者クラブに所属しないフリーランスの記者限定で情報の無償提供」を行った。
動画:2011年11月11日~12日の福島第一原発同行取材(外国プレス代表取材)の映像
(http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1112/02/news004.html)
また、細野原発担当大臣はNHKの番組で、原発周辺で放射線量が高く、住民の帰宅が困難な地域について、「土地の買い上げもしくは借り上げを含めて長期的な対策を立てる必要がある」と述べた。
一方、警戒区域と計画的避難地域の中には、放射線量が低くなってきていることを根拠に「帰れる地域もある」との認識でもある。しかし、原発労働者や警戒区域で過ごしていた人々の不安は消えたわけではない。
●推進派だったが、事故で考え方が一変したTさん
東京電力・福島第一原子力発電所で働くTさん(20代後半)は3月11日、同発電所内で被災した。そのことで、Tさん自体の原発に対する考え方に変化が出てきた。賛成派から反対派へと意見が変わってきたのだ。
「高校卒業とともに原発で働いてきたけど、僕らは東京のために電気を作っていることが誇りになってきた。高校生が夜中にカラオケしても大丈夫なために。もちろん学生のころから、『(原発を)押し付けられてきた』という意識もあった。『危険だから地方に押し付けたんだ』と。
ただ、3.11以前は、それでも原発推進派でした。火力発電所をつぶして、クリーンな原子力にすればいいと思っていました。海外にもどんどん輸出すればいいと思っていた。でも、原発事故で考えが変わった。まったく安全とは思っていなかったけど、安全対策はできていると思っていた。大丈夫だと思っていても、こうなってしまった」
福島県双相地区では、高校卒業後に原発関連企業に勤務することは一般的であり、安定的な職業とみられていた。有望な就職先で、「結婚するなら、東電社員」とも言われたりしていた。いわゆる企業城下町だ。企業城下町であれば、東電でなくてもその企業は地域では有望株だ。東電もその1つだった。「発電所はなくなるわけない」と思われていた。
しかし、その有望株の企業が事故を起こした。それも企業城下町だけでなく、広範囲に何世代にも影響を及ぼす危険性のある大事故だ。
●「東電に加害者意識がない」
「東京電力は2003年の時に改心したつもりだろうけど……」
Tさんがつぶやいた2002年8月、東京電力と原子力安全・保安院が原発の点検・補修作業の不適切な取り扱いについて公表。1号機の1年間の運転停止処分を受ける。2003年4月には、東京電力の原子力発電所全号機を運転停止した。また2007年には、29年前の1978年11月にあった3号機の臨界事故が公表されるなど、事故隠しの体質が変わっているわけではない。
「加害者意識はないんですよ」
そんなTさんは3月11日17時ごろには「なにかまずい」と思っていた。
「地震が起きてから、仕事が解散になったんです。そして、大熊町の災害対策本部に行ったんです。すると、黒板にいろんな情報が書いてあった。それを見て、よい方向には進んでいないと思った。津波が押し寄せていることは知っていたし、何かが起きているんだろうと思った。でも、携帯電話が通じないし、具体的な情報は入ってこない。12日の朝には避難が決まり、バスで西に向かった。運転手は行き先を教えられていない。これは間違いなくとんでもないことが起きている。メルトダウンしているのかもしれない、と思ったんです」
●震災直後で「メルトダウンか?」と思っていた
Tさんは原発で働いていたからこそ、こうした緊急事態になることは何を意味しているか想像ができていたのだろう。
「『レベル7の事故が起きている。もう永久に戻れないかもしれない。水戸から仙台までは人が住めないのではないか?』とまで考えたんです。官房長官が『ただちに影響はない』って、そんなこと言っていいのか。どういう意図でどんな情報が流れているのか。記事を書いている人も意味を理解できていない。部分的な情報を知っている人はいるとは思うけど、全容を知っている人はいないんじゃないか」
事故後の3月中ごろ、再び第一原発に戻ってきたTさん。それまで報道で見ていた光景が目の前にあり、頭の中が真っ白になった。
「すごい光景が広がっている。大変なところに来てしまった」
トラックが縦に連なっているなど、むちゃくちゃだった。周囲には青いガレキもあった。「いったい何だろう?」と思ったら、それは建屋の外壁だった。その後、ヘリコプターから放水作業をすることになるが「しないよりはマシ程度だった」という。
「Jビレッジで自衛隊の人に会った時に『あれって効果あったんですか?』と聞かれたんです。その時は『あったと思いますよ』と答えました。『やらないよりはやった方がいい』とは言えませんでしたよ」
●津波が来ると知り避難した小学校
3月11日14時46分、双葉郡富岡町の富岡第一小学校(八島敬校長)では授業が終わり、帰りの会が行われていた。1年生だけは下校が終わっていた時だった。大きな地震があり、余震が続いた。児童と職員は何も持たないで校庭に避難した。
10数分後、町の広報無線で「大きな津波が来る」との放送が流れた。第一小学校は海から1~2キロの地点にある。そのため、高台に逃げることになる。国道6号線を避けて北上。広報無線で指示のあった町の体育館に向かった。
「泣いている子どもたちもいました。強烈な揺れでしたからね。校門が倒れていましたし、避難途中では古い民家の瓦が落ち、煙が立っていたのが見えました。逃げる時には子どもたちはみんな真剣な表情でした。子どもたちも何かを感じていたんでしょうね」(八島校長)
体育館に避難すると、親が迎えに来た子どももいた。そこで親に引き渡した。津波で家が流れてしまった子どももいたが、犠牲者はゼロだった。
その後、地震の影響で天井が落ちそうということで体育館の外に出される。テニスコート用のドームに避難するが、風が入ってくるし、砂ぼこりも立っていた。また寒いということで、富岡二中の体育館にバスで移動することになった。しかし、そこはすし詰め状態だった。
次の日の朝まで親に会えない子どもは7人いたという。親自身も避難所を転々としたようだ。
●原発事故で情報が錯綜。郡山へ
「1日経てば避難は解除になるだろう」
八島校長はそう思っていた。しかし、翌12日の朝、「原発が危険」との情報が入って来た。まだ7人の子どもを親が引き取りにきていない。しかし、8時すぎに、バスで川内村へ避難することになる。
「行くまで大変だった。ずっと渋滞で、通常は30分で行けるところが、3~4時間かかったんです」
富岡高校川内分校の体育館に避難したが、携帯電話は通じない。町の広報だけが情報源だった。お昼には着いたが、なかなか川内村に来れない子どもも多く、また親が迎えにも来れない。ただ、14時過ぎ、最後の1人の6年生の女子児童の親が迎えに来たという。地震発生から丸1日が経っていた。
新聞が届いたのは13日。そこでようやく津波被害と原発事故のことを知った。14日にはラジオで「原発が危ない」ことが分かり、15日朝には「ここからも逃げないと危ない」ということになった。16日には郡山市のビックパレットに避難することになった。
「携帯電話が通じず、最初はラジオの情報もクルマの中で聴いている人だけが分かっている程度で、体育館にいると情報がまったくなかった。体育館での対応は役場職員のみで、ほかにはボランティアを募っていました。高校生などの若い人が手伝ってくれていました。先生方も家族のもとへと帰しました。そのうち、情報が集まって来たのです」
その後、先生たちも避難生活となる中、校長は先生たちの安否確認、担任は児童の安否確認をすることとなる。ただ、すべての児童と連絡が取れたのは4月上旬、約1カ月かかった。避難先に埼玉、東京、新潟など他県が多かっただけでなく、母親が外国人で、フィリピンや中国に避難した児童もいたからだ。
●学校再開は9月1日になってから
富岡第一小は第二小と第一中、第二中とともに9月1日、郡山市北東の三春町の工場敷地内にある管理棟を間借りして再開した。しかし戻ってきたのは、もともとの児童数400人をはるかに下回る18人だけ。あとはいわき市、郡山市内の小学校を中心に転入することとなった。また、18人では人数が少ないため、第二小の児童24人と一緒に授業をすることになった。
「学校を再開するまでは、児童を確認し、心のケアにあたることになった。いじめられたという話は聞かない。ただ、離れた地域では1人しか富岡の子どもがいないために、打ち解けないでいることはあった。そうした児童には教員が対応していた。ただ、転入先が広範囲だったために、すべての子どものところに行くことは不可能だった」(八島校長)
7月を過ぎると、郡山市内で学校の立ち上げについての協議が始まった。その結果、町役場が三春町へ移設することになったこともあり、「学校も三春町で」となった。初めは廃校を探したが、結果として現在の工場の管理棟になった。管理棟内部の工事も8月になってから始まり、9月1日の再開には、教室だけが何とか間に合った。学校給食は、給食室の設備がないために、町内の弁当屋から調達している。
「特技のある子どもたちは、新しい学校でも順応したようです。そのため、この学校に戻って来たのは、今までの子どもたちと一緒に学校生活をやっていきたい子、新しい環境ではなじめなかった子が多いですね。子どもたちの希望で来たのが多いようです。最近はぽつりぽつりと戻って来ていますが、爆発的に増えることはないと思う。最初は『本当にできるのか?』と思っていたのですが、何とか間に合った、という感じです」(八島校長)
少人数なので、子どもと丁寧に接する時間が長くなることはメリット。これまでよりも、ひとりひとりを大切にしていけるという。また、学校行事はなるべくやっていくことを考えている。原発事故で振り回された学校は、ようやく落ち着きを取り戻しつつある。しかし、原発事故はまだ収束していない。
[渋井哲也,Business Media 誠]
(この記事は社会(Business Media 誠)から引用させて頂きました)