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地震は強力であり、地震には人のチカラでは敵わないのが事実。
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地震がすっごく怖いんです、私じゃなくて私の彼氏が。



前に彼氏の家にいたとき、地震が起こって悲鳴上げてたんですよ。



私じゃなくて彼氏が悲鳴を。



地震がコワイのは分かるけど、いくらなんでも甲高い声で叫ぶなんてビビリ過ぎ。







この地震見ただけでも、ちょっとビクっとしちゃうんだろうなー、彼氏。



男としてどうなんだよオイ。







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ジェイクと呼ばれる男の日記





【参考情報】

○原発事故 大津波が原因 東電中間報告 「全員撤退」は否定○





 東京電力は2日、福島第1原発事故を受けて社内事故調査委員会がまとめた中間の事故調査報告書を公表した。想定を超える津波が建屋内に流れ込んだことで全電源を失い、事故時に作動が期待された機器の除熱機能を喪失したことが直接の原因とした。津波対策を「建屋敷地レベルが想定津波の高さを上回り、機器に影響を及ぼすとは考えず、特別な対策を講じていなかった」とし、これまでの説明をほぼ踏襲した。来年6月に最終報告書をとりまとめる。



 報告書は、現場確認や残されたデータなどから「安全上重要な機器に地震による損傷はない」とし、津波による浸水(海抜11・5~15・5メートル)が事故拡大の起因になったとした。



 津波対策で、東電は平成14年に新しい評価手法で想定する高さを最大5・7メートルに引き上げ、過去の大地震の影響も検討。10メートル超の試算も出したが対策に反映させず、報告書は「さまざまな取り組みをしたが、津波は想定を大きく超え、被害を防げなかった」とした。



 水素爆発は1、3、4号機で計3回発生したとして、2号機では爆発は起きていないと推定。4号機の爆発音と同時期に2号機格納容器につながる圧力抑制室の圧力がなくなったことについては、「計器の故障の可能性が高い」とした。



 また、3月12日朝の菅直人首相(当時)の現場視察に関しては、原子炉内の圧力を下げるため蒸気を放出する「ベント」作業への影響はなかったとしたほか、東電が首相官邸に「全員撤退」の意向を伝えたとされる点についても否定。社内調査委の委員長を務めた山崎雅男副社長は会見で「全員撤退という社内の記録は残っていない」と述べた。



 一方、中間報告に対し、社外有識者による検証委員会(委員長・矢川元基東京大名誉教授)は「津波対策は安全側の発想に立ち、取り組んでいた」としたが、「全電源喪失といった事故の想定を行わなかったことは、結果としてアクシデントマネジメント(過酷事故対策)における想定が不十分だったと評価せざるを得ない」と指摘した。





(この記事は社会(産経新聞)から引用させて頂きました)

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地震が起こると子供たちがおもいっきり騒ぐ。



地震が怖くて騒いでいるならカワイイものだが、地震を見るだけでテンションが最大限になるらしい。



兄弟揃って地震の強大なチカラに感動すら覚えているらしい。







地震を怖れないのは我が子ながら関心するが、それにしても楽しそうだ……



これでいいのだろうか、まぁ怖がるよりはいいの、かもしれない。







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ユタカマツオの散文詩





【参考情報】

○「長靴がズルッと溶けた」 東電事故調報告 弁明に終始、残る多くの謎○



 福島第1原発事故をめぐり、東京電力が2日に公表した事故調査報告書。発電所員への聞き取り調査などで、事故直後の緊迫した状況が浮かび上がった。一方、事故検証では「予測できなかった」「(厳しい環境で)難しかった」などの言葉が踊り、弁明に終始。これまで謎とされてきた、多くの事項についても未解明のままで課題を残した。



   「長靴が溶けた」



 「海水が流れ込んできている!」。福島第1原発に津波が押し寄せた3月11日午後3時半すぎ、原発をコントロールする中央操作室に運転員が駆け込んできた。室内の電源のランプが点滅を始めると、一斉に消灯。暗闇に包まれた。



 「操作もできず、手も足も出ないのに、われわれがここにいる意味があるのか」。運転員から噴出する不満や不安の声。対応した責任者は頭を下げ、「ここに残ってくれ」と懇願するしかなかった。



 東電による聞き取り調査で判明した、事故直後の状況だ。ほかにも原子炉の圧力を抜くベント作業に向かった作業員は「ボコッ、ボコッと大きく不気味な音を聞いた」と証言。高温場所で「長靴がズルッと溶けた」こともあった。



   事実の列挙



 報告書で詳述された事故直後の状況だが、肝心の事故原因などについては事実関係の列挙に終始。具体的な政府とのやりとりや、判断を下した背景についての説明はなかった。



 例えば、多くの専門家が高い関心を寄せる1号機の「非常用復水器(IC)」の操作については、従前の説明を繰り返すのみ。ICは緊急時に原子炉を減圧・冷却する重要な装置だが、津波直後に運転員が約3時間停止させている。



 東電は「ICが空だきになって壊れ、放射能が外に出るのを防ぐため止めた」と説明するが、稼働していれば事故拡大を防げた可能性があり、操作の妥当性は検証課題として残った。



    全て明らかに



 ほかの謎も未解明のままだ。ベント作業が遅れた点も、準備指示が出てから14時間近くかかった理由を十分に説明できていない。



 2、3号機では非常用冷却システムが稼働し、燃料溶融まで2、3日の余裕があったが、その間、具体的にどのような対策を講じてきたかも説明不足だ。



 九州大の工藤和彦特任教授は「事故当時の人の動きなど、東電にしか分からない情報がたくさんある。当時、運転員はどのような指示で、どう考えて事故対応にあたったのか、全て明らかにするのが東電の責務だ」と話している。



 東電の事故調査報告書を見る限り、甘い想定を放置したことへの反省はない。



 東電は津波の研究を怠っていたわけではない。報告書にも「津波の知見や学説が出た際は、自主的に検討や調査をしている」とある。実際に、福島第1原発に10メートル超の津波が来るとも試算していた。だが、知見は生かされなかった。東電は「根拠がなく仮定にすぎない」とし、「安全対策は国と一体となって進めてきた」と正当性を主張する。



 これに対し、外部有識者からなる事故調査検証委員会は、一定の理解を示しつつも「地震や津波をより真剣に考えておくべきだった」とし、「事故を発生、拡大させたのは、事前の安全対策が十分でなかったことによる」と結論づけた。



 検証委は「東電を含むわが国の原子力関係者において、過酷事故など起こりえないという『安全神話』を生み、抜け出せなかった」とも言及した。



 今回の調査は、約250人の社員から聴取したという。だが、自浄を求める社内の声は盛り込まれていない。津波の想定を放置した社内の議論も謎のままだ。真摯な自己批判なしに、真相の究明はない。(原子力取材班)





(この記事は社会(産経新聞)から引用させて頂きました)

地震は自然の強大なチカラであり、地震を操作するなんてことは現代の技術力では不可能である。



しかし、現代は古代と異なり、地震のメカニズムや事前に察知するだけの術は有している。



それがカギとなるのだ。







古代は地震を神のチカラだと畏怖していたが、現代では科学力によって解明されつつある。



地震は神ではない、自然現象だ。







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シュンヤの毎日





【参考情報】

○東北地方の海底地形変動、海溝軸まで達した断層破壊……海洋研究開発機構が検証○





 海洋研究開発機構の地球内部ダイナミクス領域の冨士原技術研究主任らは2日、東北地方太平洋沖地震の震源域近傍における海底地形変動の検証について、新たに2004年に実施した海底地形調査データも加えた変動量の評価を発表した。



【その他の画像、より大きな画像、詳細なデータ表など】



 4月28日時点では、1999年と2011年のデータの比較を行い、大幅に地形が移動した可能性が指摘されていたが、今回改めて、1999年から2004年では海底地形の変化は認められないことが確認された。移動量については、今回さらに詳細な検討が実施され、震源近傍から海溝軸に至る領域が東南東方向に約50m、上方に約7~10m移動したことが確認された。海溝軸まで達した断層破壊だという。



 なおこの検証の成果については、12月2日付の米科学誌「サイエンス」に掲載される予定。







(この記事はテクノロジー総合(RBB TODAY)から引用させて頂きました)

地震に真っ向勝負で勝てるわけがない!



人間は太古の昔から地震にはおそれおののき、地震を鎮めるための儀式とかいろいろと頑張っていたらしいから、現代の技術でもそんなのに勝てるわけがない!



地震に対抗するには、気持ちで負けないことだ! 気持ちさえあればどうにかなる!







めっちゃコワイ!!! めっちゃコワイけどコワイからこそ頑張って勝てよオレオイ!!!









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携帯電話の日記





【参考情報】

○「結婚するなら東電社員」だったけど……原発城下町住民のいま○





東日本大震災ルポ・被災地を歩く:

 東京電力の福島第一原発の事故から8カ月。2011年もあと残り1カ月となったが、事故収束の見通しははっきりしない。原発事故の廃炉に向けては、11月9日になってから枝野幸男経済産業大臣と細野豪志原発担当大臣が、東京電力の西沢俊夫社長らに具体的な工程表の作成を指示した。それによると、年内に安定的な「冷温停止」状態を維持し、「ステップ2」の段階を終える予定だ、という。



【画像:事故時に出動した放水車、ほか】



 こうした中、11月12日、細野原発担当大臣が福島第一原発の視察に同行する形で、事故後初めて報道陣の取材が許可された。しかし許可されたのは、内閣記者会、福島県政記者クラブ、外国プレスの代表といった限られた枠でのもので、雑誌やインターネット・メディア、フリーランスには許可されなかった。



 こうした取材制限は内外から批判を浴びた。そのため、外国プレスの代表取材をした新月通信社代表でイランの国際衛星放送PressTV日本支局長のマイケル・ペンさんが、「記者クラブに所属しないフリーランスの記者限定で情報の無償提供」を行った。



動画:2011年11月11日~12日の福島第一原発同行取材(外国プレス代表取材)の映像

(http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1112/02/news004.html)



 また、細野原発担当大臣はNHKの番組で、原発周辺で放射線量が高く、住民の帰宅が困難な地域について、「土地の買い上げもしくは借り上げを含めて長期的な対策を立てる必要がある」と述べた。



 一方、警戒区域と計画的避難地域の中には、放射線量が低くなってきていることを根拠に「帰れる地域もある」との認識でもある。しかし、原発労働者や警戒区域で過ごしていた人々の不安は消えたわけではない。



●推進派だったが、事故で考え方が一変したTさん



 東京電力・福島第一原子力発電所で働くTさん(20代後半)は3月11日、同発電所内で被災した。そのことで、Tさん自体の原発に対する考え方に変化が出てきた。賛成派から反対派へと意見が変わってきたのだ。



 「高校卒業とともに原発で働いてきたけど、僕らは東京のために電気を作っていることが誇りになってきた。高校生が夜中にカラオケしても大丈夫なために。もちろん学生のころから、『(原発を)押し付けられてきた』という意識もあった。『危険だから地方に押し付けたんだ』と。



 ただ、3.11以前は、それでも原発推進派でした。火力発電所をつぶして、クリーンな原子力にすればいいと思っていました。海外にもどんどん輸出すればいいと思っていた。でも、原発事故で考えが変わった。まったく安全とは思っていなかったけど、安全対策はできていると思っていた。大丈夫だと思っていても、こうなってしまった」



 福島県双相地区では、高校卒業後に原発関連企業に勤務することは一般的であり、安定的な職業とみられていた。有望な就職先で、「結婚するなら、東電社員」とも言われたりしていた。いわゆる企業城下町だ。企業城下町であれば、東電でなくてもその企業は地域では有望株だ。東電もその1つだった。「発電所はなくなるわけない」と思われていた。



 しかし、その有望株の企業が事故を起こした。それも企業城下町だけでなく、広範囲に何世代にも影響を及ぼす危険性のある大事故だ。



●「東電に加害者意識がない」



 「東京電力は2003年の時に改心したつもりだろうけど……」



 Tさんがつぶやいた2002年8月、東京電力と原子力安全・保安院が原発の点検・補修作業の不適切な取り扱いについて公表。1号機の1年間の運転停止処分を受ける。2003年4月には、東京電力の原子力発電所全号機を運転停止した。また2007年には、29年前の1978年11月にあった3号機の臨界事故が公表されるなど、事故隠しの体質が変わっているわけではない。



 「加害者意識はないんですよ」



 そんなTさんは3月11日17時ごろには「なにかまずい」と思っていた。



 「地震が起きてから、仕事が解散になったんです。そして、大熊町の災害対策本部に行ったんです。すると、黒板にいろんな情報が書いてあった。それを見て、よい方向には進んでいないと思った。津波が押し寄せていることは知っていたし、何かが起きているんだろうと思った。でも、携帯電話が通じないし、具体的な情報は入ってこない。12日の朝には避難が決まり、バスで西に向かった。運転手は行き先を教えられていない。これは間違いなくとんでもないことが起きている。メルトダウンしているのかもしれない、と思ったんです」



●震災直後で「メルトダウンか?」と思っていた



 Tさんは原発で働いていたからこそ、こうした緊急事態になることは何を意味しているか想像ができていたのだろう。



 「『レベル7の事故が起きている。もう永久に戻れないかもしれない。水戸から仙台までは人が住めないのではないか?』とまで考えたんです。官房長官が『ただちに影響はない』って、そんなこと言っていいのか。どういう意図でどんな情報が流れているのか。記事を書いている人も意味を理解できていない。部分的な情報を知っている人はいるとは思うけど、全容を知っている人はいないんじゃないか」



 事故後の3月中ごろ、再び第一原発に戻ってきたTさん。それまで報道で見ていた光景が目の前にあり、頭の中が真っ白になった。



 「すごい光景が広がっている。大変なところに来てしまった」



 トラックが縦に連なっているなど、むちゃくちゃだった。周囲には青いガレキもあった。「いったい何だろう?」と思ったら、それは建屋の外壁だった。その後、ヘリコプターから放水作業をすることになるが「しないよりはマシ程度だった」という。



 「Jビレッジで自衛隊の人に会った時に『あれって効果あったんですか?』と聞かれたんです。その時は『あったと思いますよ』と答えました。『やらないよりはやった方がいい』とは言えませんでしたよ」



●津波が来ると知り避難した小学校



 3月11日14時46分、双葉郡富岡町の富岡第一小学校(八島敬校長)では授業が終わり、帰りの会が行われていた。1年生だけは下校が終わっていた時だった。大きな地震があり、余震が続いた。児童と職員は何も持たないで校庭に避難した。



 10数分後、町の広報無線で「大きな津波が来る」との放送が流れた。第一小学校は海から1~2キロの地点にある。そのため、高台に逃げることになる。国道6号線を避けて北上。広報無線で指示のあった町の体育館に向かった。



 「泣いている子どもたちもいました。強烈な揺れでしたからね。校門が倒れていましたし、避難途中では古い民家の瓦が落ち、煙が立っていたのが見えました。逃げる時には子どもたちはみんな真剣な表情でした。子どもたちも何かを感じていたんでしょうね」(八島校長)



 体育館に避難すると、親が迎えに来た子どももいた。そこで親に引き渡した。津波で家が流れてしまった子どももいたが、犠牲者はゼロだった。



 その後、地震の影響で天井が落ちそうということで体育館の外に出される。テニスコート用のドームに避難するが、風が入ってくるし、砂ぼこりも立っていた。また寒いということで、富岡二中の体育館にバスで移動することになった。しかし、そこはすし詰め状態だった。



 次の日の朝まで親に会えない子どもは7人いたという。親自身も避難所を転々としたようだ。 



●原発事故で情報が錯綜。郡山へ



 「1日経てば避難は解除になるだろう」



 八島校長はそう思っていた。しかし、翌12日の朝、「原発が危険」との情報が入って来た。まだ7人の子どもを親が引き取りにきていない。しかし、8時すぎに、バスで川内村へ避難することになる。



 「行くまで大変だった。ずっと渋滞で、通常は30分で行けるところが、3~4時間かかったんです」



 富岡高校川内分校の体育館に避難したが、携帯電話は通じない。町の広報だけが情報源だった。お昼には着いたが、なかなか川内村に来れない子どもも多く、また親が迎えにも来れない。ただ、14時過ぎ、最後の1人の6年生の女子児童の親が迎えに来たという。地震発生から丸1日が経っていた。



 新聞が届いたのは13日。そこでようやく津波被害と原発事故のことを知った。14日にはラジオで「原発が危ない」ことが分かり、15日朝には「ここからも逃げないと危ない」ということになった。16日には郡山市のビックパレットに避難することになった。



 「携帯電話が通じず、最初はラジオの情報もクルマの中で聴いている人だけが分かっている程度で、体育館にいると情報がまったくなかった。体育館での対応は役場職員のみで、ほかにはボランティアを募っていました。高校生などの若い人が手伝ってくれていました。先生方も家族のもとへと帰しました。そのうち、情報が集まって来たのです」



 その後、先生たちも避難生活となる中、校長は先生たちの安否確認、担任は児童の安否確認をすることとなる。ただ、すべての児童と連絡が取れたのは4月上旬、約1カ月かかった。避難先に埼玉、東京、新潟など他県が多かっただけでなく、母親が外国人で、フィリピンや中国に避難した児童もいたからだ。



●学校再開は9月1日になってから



 富岡第一小は第二小と第一中、第二中とともに9月1日、郡山市北東の三春町の工場敷地内にある管理棟を間借りして再開した。しかし戻ってきたのは、もともとの児童数400人をはるかに下回る18人だけ。あとはいわき市、郡山市内の小学校を中心に転入することとなった。また、18人では人数が少ないため、第二小の児童24人と一緒に授業をすることになった。



 「学校を再開するまでは、児童を確認し、心のケアにあたることになった。いじめられたという話は聞かない。ただ、離れた地域では1人しか富岡の子どもがいないために、打ち解けないでいることはあった。そうした児童には教員が対応していた。ただ、転入先が広範囲だったために、すべての子どものところに行くことは不可能だった」(八島校長)



 7月を過ぎると、郡山市内で学校の立ち上げについての協議が始まった。その結果、町役場が三春町へ移設することになったこともあり、「学校も三春町で」となった。初めは廃校を探したが、結果として現在の工場の管理棟になった。管理棟内部の工事も8月になってから始まり、9月1日の再開には、教室だけが何とか間に合った。学校給食は、給食室の設備がないために、町内の弁当屋から調達している。



 「特技のある子どもたちは、新しい学校でも順応したようです。そのため、この学校に戻って来たのは、今までの子どもたちと一緒に学校生活をやっていきたい子、新しい環境ではなじめなかった子が多いですね。子どもたちの希望で来たのが多いようです。最近はぽつりぽつりと戻って来ていますが、爆発的に増えることはないと思う。最初は『本当にできるのか?』と思っていたのですが、何とか間に合った、という感じです」(八島校長)



 少人数なので、子どもと丁寧に接する時間が長くなることはメリット。これまでよりも、ひとりひとりを大切にしていけるという。また、学校行事はなるべくやっていくことを考えている。原発事故で振り回された学校は、ようやく落ち着きを取り戻しつつある。しかし、原発事故はまだ収束していない。



[渋井哲也,Business Media 誠]







(この記事は社会(Business Media 誠)から引用させて頂きました)

オレは地震なんぞ怖くはない!



男たるもの、地震なぞにひるんでいるようでは名が廃る!!



地震に怯えず、真っ向から打ち勝ってこそ真の男だ!!



地震よ、どこからでもかかってくるがいい!!!







……人間であるがゆえに、地震が直撃するのは避けるべきだろう。



地震には気持ちで打ち勝つのだ、気持ちで!!!







【協賛サイト】

チューリップの日記





【参考情報】

○元高校教師、東日本大震災と対比 浜田地震の冊子発刊 島根○



 明治5年に島根県西部を襲った浜田地震と東日本大震災を対比させた冊子を、同県大田市の元高校教師、松井整司さん(78)がまとめた。A5判50ページで、「浜田地震と東日本大震災」と名づけて発刊。浜田地震が県民に知られていないことから、地震への関心が高まっているこの時期にぜひ読んでほしいとしている。



 松井さんは7年前にも、浜田地震に関する資料を紹介する著作を出版。「石見大地震」と名づけたこの本では、明治21年に農商務省の職員が行った調査報告を中心にまとめた。



 しかし、学術的な記述が多く県民に広く読んでもらう本ではないことから、浜田地震については知られていないまま。今回は、東日本大震災と対比させることで読んでもらうきっかけになればと、前作をたたき台に読みやすい冊子にした。



 国内を襲った津波についても、有史以来の記録をピックアップ。西日本の日本海側は比較的安全とする統計結果を示している。



 三瓶山の火山活動史を研究し、約4千年前の「三瓶小豆原埋没林」の発見にも貢献したという松井さん。「想定外という言葉は地球の変遷を無視した人間の思い上がり」と話している。



 1部千円で300部を印刷。図書館などに配布するほか、地元の書店で販売する。郵送での購入希望者は松井さん((電)0854・82・0527)に申し込みを。





(この記事は島根(産経新聞)から引用させて頂きました)

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