地震が来たら、まずはどうすればよいでしょうか?
逃げるにこしたことはないですが、
地震から逃げるというのがどういったものか、あまりぴんときません。
動画を見て、その方法を考えておくのは重要かもしれません。
地震が起こらない土地に行くというのもよいですが、
それだけで人生左右されてもつまらないかもしれない。
地震が起きることはしょうがない、と思い、なるべくそのことを想定して、
暮らしていくしかないのでしょう。
いやあ、本当に地震は怖いです。
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元気な村の日常【参考情報】
○また「町の人たちのたまり場」に 部員ら通う床屋さんも無からの再出発○
【僕たちのプレーボール 新春(2)】 がれきの中に、蛇口だけがぽつんと残っていた。ほかには店の痕跡を示すものは何一つなかった。
昨年3月13日。東日本大震災から3日目の早朝。宮城県石巻市で理髪店を営む藤井浩治(46)は、避難していた高台にある石巻高校から、自分の店の方にひとり下りていった。「どうしても行ってみたくて」
日本製紙石巻の野球部員らも訪れる「ヘアカットクラブ・マーク」は、津波と火事にのみ込まれた同市門脇町にあった。
「まだまだあちこちくすぶっていて、どこに自分の店があるか、わからなかった。コンクリートのところを探して歩くようにして、ようやく蛇口を見つけ、ここか、とわかった」
震災が起こったとき店にいた藤井は「5分後に6メートルの津波が来る」というラジオの情報を聞いて、すぐに日和山の方に向かった。「そうはいっても、どうせ1メートルぐらいだろうなと思っていたので、すぐ店に戻るつもりで携帯電話も売上金もそのまま残してきた」
しかし津波は店のあった地域一帯をのみ込み、藤井はそのまま家に戻れなくなる。妻子は無事だったが、両親と自宅と店を失った。
「おやじは2階に上がったところで、おふくろは多分、北側の納戸から流されたんだと思うが、近くの木のところで亡くなっていた」。両親を見つけたのは藤井だった。「全然、涙、出ねえんですよ。ただ呆然とするだけだった」
***
「ヘアカットクラブ・マーク」は、日本製紙石巻野球部の部室の近くにあり、外野手の西尾俊介(29)らがよく通っていた。
「野球の話はあまりしなかったかな。バイクとか趣味の話をよくしていた」と西尾が言えば、藤井も「彼らが一昨年、都市対抗に出たときは石巻市民としてうれしかった」。
店名に「クラブ」と名付けたのは、「昔の床屋さんのように町の人たちのたまり場になってほしいと思ったから。集まってワイワイおしゃべりできるような、そんな店にしたかった」
生まれも育ちも石巻。仙台の理髪店で働いた後、平成8年に石巻に帰り、自分の店を持った。日本製紙の野球部員もやってくるようになり、藤井が願ったように、近所の人たちが集まってくる店になった。
そんなとき、襲った地震。
理髪師にとって命のように大切なハサミもすべて津波に流された。手になじんだハサミはかけがえのないものだった。
しかし、藤井が被災したことを知った仙台時代の後輩たちが、藤井が使っていたハサミと同じものを探して持ってきてくれた。
「うれしかった。人のつながりのありがたさをこれほど感じたことはない」
***
昨年夏に行われた都市対抗東北予選の直前、藤井はハサミを持って、日本製紙石巻野球部の部室を訪れた。西尾らの髪をカットするためだ。
「こうなったら都市対抗に行ってほしかったんだけどね」。東北予選で敗れ、日本製紙石巻は都市対抗本戦出場を逃したが、藤井は「今年に期待している」という。「この野球部は、もちろん日本製紙さんのチームなんだけど、石巻の代表でもあるんだ。だから都市対抗は応援に力が入る」
店を失ってから、得意客のために出前でカットをしていたが、昨年12月10日、石巻市立町に作られたプレハブの仮設商店街「石巻立町復興ふれあい商店街」のなかの一軒として、12坪の「理容石巻」がオープン。藤井をはじめ被災した理髪師4人が共同運営している。
「鏡と椅子があるところでやれるのはすごくうれしい。みんな待っていてくれたからね」。藤井は笑顔で語った。
4月中旬には藤井の新しい店がオープンする。元の店からほど近い場所で、店名も同じ、「ヘアカットクラブ・マーク」。
震災から立ち上がろうと前向きに生きる力。その源は人と人との絆にほかならない。=敬称略(亀岡典子)
(この記事は社会(産経新聞)から引用させて頂きました)
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